音楽啓蒙活動のなかで


 帰国して早速わたくしはこの面でも啓発を始めたところ、これには予想外の大きな反発や誤解が起こった。とくに専門の音楽家たちの否定的な態度はすさまじかった。ある声楽家はブロックフレーテ(リコーダー)を「音程不明確な魔の楽器」と呼び、ある音楽批評家は「リコーダーの演奏に電源はどうするのか」と尋ねてきた。リコーダーとテープレコーダーとを混同したらしい。またある高名の批評家はいきなり「皆川君、キミはけしからん。バッハをチェンバロで弾けとは何事ですか。あんな不完全な楽器はバッハの音楽を殺すだけです。バッハはピアノで弾くべきです」と決めつけられた。

 この批評家は、わたくしが普及に努めていたバロック音楽にも大変ご不満で、「バロック音楽など、通奏低音といって最上声部と最低声部しかない、内容のうすい貧弱な音楽です。せっかくショパンなどの充実した立派な音楽があるのに、どうしてこんな空虚な音楽を聞かせようというのですか」と、お叱りをうける始末であった。当時のわが国における古楽演奏の水準からいえばやむをえない発言かとも思うが、現在のバロック音楽のひろい普及、古楽演奏の隆盛と比較して、今昔の感にたえない。

 また、ヨーロッパへの留学の前後の期間には、NHKのラジオやテレビなどにもいろいろの形で出演するようになった。とくに1960年代のNHK教育テレビには音楽の啓蒙番組がたくさん放映されていて、わたくしはよく故小泉文夫君と組んで出演した。ルネサンス時代の貴族に扮装して音楽史の解説をしたこともある。

 テレビ朝日の故黛敏郎君の『題名のない音楽会』にも、小泉君と一緒に企画者として協力した。彼小泉君はつねに卓抜な企画を出して独特の流暢な話術で、当時はまだ無視されがちの民族音楽の紹介に成功していた。この『題名の‥』は、いろいろの音楽を多角的に見る面白い番組で、わたくしも興味を持って参加した。ゲーテとベートーヴェンとの邂逅の舞台を日本の温泉場に設定して、浪花節仕立てにしたのはわたくしの発案である。王侯貴族に恭順なゲーテと反抗的なベートーヴェンとが、バッタリ大浴場で裸のまま出会うという一幕である。ところが黛君が次第に政治的に変貌してゆく姿に、わたくしの少年時代の悪夢が不気味に重なりあってきて、残念ながらこの番組は途中で降板させてもらった。

イタリア政府から勲章を受ける (1978年)

 NHK・FM『バロック音楽の楽しみ』という番組は、服部幸三氏と交替制でほぼ20年間も担当した。毎日放送されるために、あらかじめ何日分かをまとめて録音しておいても、貯えはすぐに底をついてしまう。一番困ったのは、1982(昭和57)年に、立教大学を一年間研究休暇したときである。ヨーロッパ出発前の忙しいなかをNHKに通いつめ、何とか一年分を収録しおわった。

「では、行ってきますよ」と担当プロデューサーに挨拶したところ、すかさず「元気で行ってらっしゃい。ただし、死んでは困りますよ。怪我や病気はけっこうですが、死なれると、この録音が全部無駄になりますからね」と念をおされたのには閉口した。もちろん冗談に隠された、あたたかい友情の表現である。

 現在なお続いているNHK・AM第一放送『音楽の泉』(毎日曜朝八時五分から)は、1949(昭和24)年に開始され、今年で48年目になる長寿番組である。クラシック音楽放送としては日本一の最長番組であろう。初代の堀内敬三氏、二代目の村田武雄氏につづいて、三代目のわたくしが担当してからでももう九年になる。

『バロック音楽の楽しみ』と違ってここでは、わたくしの専門の古い音楽だけを放送するわけにはゆかない。むしろバッハ以後の音楽作品を中心に、現代作品や日本歌曲まで含めて間口がたいへんに広い。自分の専門分野ではないだけにかえって教えられる面もあって、わたくしは楽しみながら解説を担当させていただいている。唯一の願いは、この記録的な長寿番組をわたくしの代で絶やすことなく、「売り家と唐様で書く三代目」にならぬうちに無事にすぐれた四代目に譲りわたすことである。

 NHKのスタジオで (1997年)

 NHKの放送は全国に流されていて、老若男女とわず多数の聴取者の方々から励ましのお手紙を頂戴する。特に雪ふかい東北の一人暮らしのご老人や、沖縄の病院の患者さんから「心の慰め」というお言葉をいただくほど、喜びと責任と畏怖の念をいだかせられることはない。

 学問の道を志す人間は、こうした啓蒙的な仕事をすべきではないという意見もあろう。それはそれできわめて正当な、襟を正して傾聴すべき意見である。ただし音楽、とくにわたくしが専攻する古い音楽の喜びを世にひろめるという仕事は、わたくしに課せられた大切な任務の一つと考えている。事実『バロック音楽の楽しみ』の放送が、わが国における古楽の隆盛にはたした役割は、自惚れではなく大きかったと思う。二、三年前にはグレゴリオ聖歌が、クラシック・ファンでもない若者たちにさえアピールするという現象がおこった。ヨーロッパ古楽という、ようやく日本に根づきはじめた分野に関して、つねに土壌を肥沃にしておく努力が必要である

 わたくしが全日本合唱連盟というアマチュア合唱運動機関に関係し、全日本合唱センター名誉館長として、その主催するコンクール審査や講習会講師を積極的にひき受けているのも、合唱という一般大衆−−幼稚園生から高齢者までが近づきやすいこの分野を通して、日本の音楽の底辺を高めひろめたいという意図による。事実、いま日本のアマチュア合唱はきわめて高い水準にあり、とくに高校生の合唱は世界のどこに出しても恥ずかしくない。高校合唱コンクール審査のおりには、わたくしは必ずハンカチを四、五枚持参することにしている。鬼の目に涙というか、それほどまでに感動的なのである。

 最近では国際化の傾向を反映して外国の合唱団との交流もふかまり、また日本の合唱団が積極的に海外に出かけて演奏活動するようになっている。とくに今年は世界各国から合唱を愛好する青年たちが百人あまり日本に集まって、ホームステイしつつ練習し、その成果を国内各都市における演奏会で発表するという企画が実施されている。こうした人と人とのふれ合いがどれだけ有用であるか計りがたい。社会一般ばかりでなく楽壇からでさえほとんど無視されがちの地味な分野だからこそ、わたくしはアマチュア合唱運動を実りあるものに育成する必要を感じているのである。