神の御手の業


 そのようなことがあってしばらく後、わたくしはさらにまた一つの感動的な場面に出会うことになった。聖心女子大学の講義を終えたわたくしに、一人の女子学生が近づいてきた。「先生、私がこの世に生まれることが出来たのは先生のおかげです」

 何のことか理解できないでいるわたくしに、彼女は事情を説明してくれた。彼女を胎内に宿した母親は悪阻がきびしく、三ヶ月のあいだ絶対安静を強いられ、病院のベッドから動くこともできずに苦しんでいた。流産寸前とまで宣言され、侘しく鬱々ともはや気力も衰えてしまった母親にとって、唯一の慰めはわたくしが解説を担当していたNHK朝のFM『バロック音楽の楽しみ』であった。「世の中にこんなに美しい音楽があるのだから、私もがんばろう」。その気持ちが母親を励まし、やっと無事にその女子学生を出産することができたのだという。

 わたくしのような者が人間の生命を救うことができた。涙の出るようにうれしい話である。しかしそれは一重に、音楽が蔵する力の故である。音楽は、まるで花火のように一瞬の間に生起して消滅してしまう、はかなくて力のないもののように思われがちだが、実は隠れキリシタンたちがほぼ四百年も生き続けることを支え、また流産しかかった胎児の生命を救うほどの強靭な力を内に蔵していたのである。大学受験時のわたくしが医学をとるか音楽をとるかを迷ったあげく、「音楽も、人の心の生命を救うことが出来るはずだ」と信じたことは、決して間違いでも誤りでもなかった。

 1927(昭和2)年に誕生し、今年1997年に古希を迎えたわたくしの人生をふり返ってみると、すべてはヨーロッパの古い音楽を軸にして展開してきた。ヨーロッパの古い音楽と、わたくしとの出会いは、因縁というのか運命というのだろうか、何かそう呼ぶほかはない不思議な糸によって結ばれていたように思われてならない。それをこそ、神の御手の業と呼ぶのであろうか。(完)