オラショとの出会い


 さて、その後わたくしは予想もしなかった研究テーマに出会うことになった。それは、隠れキリシタンの祈り(オラショ)の音楽である。

 九州のあるアマチュア合唱団の依頼で、ルネサンス合唱指導のために長崎市に滞在していた。たまたま練習の合間にリーダーの一ノ瀬義昭氏が「面白い歌がありますから、聞きにゆきましょう」と、あまり乗り気でもないわたくしを連れて、長崎から自動車で延々四、五時間かけ、さらにフェリーを二回も乗りついで、九州西端の生月島(平戸島の西北、現在は大橋がかけられている)に案内してくれた。

 生月島はキリシタンの島である。島内いたるところに殉教の遺跡があり、今日なお多数の隠れキリシタンが居住している。遠藤周作氏の『切支丹の里』に明らかにされているように、徳川幕府のきびしい弾圧のもと表面は棄教したように見せかけ、実は心中のキリスト教の信仰を隠れて守りつづけている人々である。家には仏壇をおき、神棚をしつらえているにもかかわらず、納戸に秘したキリスト像やマリアのメダルなどをひそかに礼拝している。「隠れ」の名のように彼らは隠れて礼拝をおこなうのが本来だが、長崎県庁勤務の一ノ瀬氏の顔で、わたくしも礼拝に連なることを許された。

 約一時間もする長い祈りが続いてゆく。その中には日本語らしいものもあり、まったく訳のわからない言葉もあり、とくに最後には、御詠歌のような調子で節をつけて歌う祈りもある。

「この訳のわからない言葉は何ですか」と伺うと、「唐言葉ですタイ。意味はまったく分からんですトー」という返事がかえってきた。しかし、わたくしの心のアンテナに鋭く感じとられるものがあった。「これは、ヨーロッパのラテン語聖歌に由来するのではないか」

 その後、何回も生月島通いをつづけて録音し、また異なる集団、異なる集落の祈りも録音し分析した。実は生月の隠れキリシタンのオラショはそれ以前からも何人かの研究者によって調査され、ラテン語の祈りであることがすでに確認されていた。ただし、それらの研究者は宗教学者であり、日本史学者であったために、音楽的な側面はまったく未知のままに残されていたのである。幸いこの時代のヨーロッパ音楽を専門にするわたくしは、手なれた音楽資料を各種動員して、オラショの原曲となったラテン語聖歌を比定した。

 ただし一曲だけは、どうしても正体がつかめない。やむなくヨーロッパ調査の旅に出かけることにした。スペイン、ポルトガル、イタリア、フランス、イギリスなどと各地の図書館、古文書館を虱つぶしに調に調べ、日本とヨーロッパを往復する旅が七年間も続いた。

 やっとその七年目に、スペインのある図書館のカードにそれらしい聖歌集を見つけ出すことができた。司書に請求したその書が手元におかれた瞬間に体がふるえてきた。これに相違ないと直感したのである。ふるえる手で一ページ、一ページ開いてゆく。「あった、これだ」

 まちがいなく生月島の隠れキリシタンのオラショの原曲が記されていたのである。それは、世界中に流布している標準的な聖歌ではなく、十六世紀のスペインのある地域だけで歌われていたローカル聖歌であった。それがこの地方出身の宣教師によって四百年前のわが国にもたらされ、九州の離れ小島で命をかけて歌いつがれてきたのである。

 この事実を知ってわたくしは、言いしれぬ感動にとらえられた。きびしい弾圧のもと虐殺に耐えて隠れキリシタンたちが生きることを支え、信仰をはげましてきたのは聖歌であり、音楽であった。音楽が、人間の生きることを支えてきたのである。