ふたたび海外に出る


 大学教師は教育とともに、研究者としての活動が必須である。もともとわたくしのヨーロッパの古い音楽に対する関心は、それら古楽が、モーツァルトやベートーヴェンらの十八、九世紀の音楽とあまりにも異なり、むしろ少年時代に親しんでいた日本の伝統音楽に近い側面があることに気づいたところから始まった。実はヨーロッパ古楽の研究がすすめば進むほど、実はそう単純なものではなく、ヨーロッパ音楽と日本伝統音楽との間にはやはり埋めがたい隔たりがあることも分かってきたが、しかし少年時代の素朴な直感もそれなりに一つの本質を捉えていた。

 そのような立場に立って、多数の著書、論文、翻訳書などを発表していった。それらは大きく分類して、音楽史概説、中世・ルネサンス期の音楽研究、記譜法史(楽譜の書き方の変遷)、楽器史、さらに日本の能楽などの諸分野にわたっている。結局わたくしがもっとも興味をもち関心をよせているジャンルであり、すべては少年時代の問題意識から出発している。

 このようにしてアメリカから帰国後の何年かを、立教大学を中心に教育と研究の両面で活動してきたが、さらにより徹底した充電の必要を痛感して、1962(昭和37)年9月から1964(昭和39)年8月にかけてドイツ、スイスに留学することになった。

 ふたたび海外に出て、音楽研究の本場ヨーロッパの大学で第一級の碩学たちの指導を受けるとともに、日本音楽に関する講義も担当して、充実した研究生活をおくった。とくにスイスのバーゼル大学では斯界の権威レオ・シュラーデ教授のご好意で研究室まで提供され、心ゆくまで研究に没頭することができた。この地で長男が誕生し、瑞西(スイス)の国名にちなんで瑞夫(みつお)と命名した。

 当時バーゼルでは、古い音楽の演奏が盛んであった。その頃まで、バッハ、ヘンデルの作品も含めてバロック音楽(十七世紀から十八世紀前半にかけての音楽)は現代楽器で演奏するのが普通であったのに対して、それらの作品が生まれ育った時代の古いタイプの楽器を復活して演奏しようという気運が、バーゼル音楽院を中心に始まった。

 これによってチェンバロ(ハープシコード)、クラヴィコード、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ブロックフレーテ(リコーダー)など、現代楽器の誕生以前の古楽器にあたらしい光があてられ、古楽器特有の演奏法が探求されるようになり、その結果、過去の音楽作品が新鮮でういういしい生命力をもって甦ってきた。わたくしはバーゼル音楽院のアウグスト・ヴェンツィンガー教授をはじめ古楽器復興の演奏家たちにも親交をえて、理論と実践との幸せな融合を身をもって感得することが出来た。

 現代では古楽器演奏はさらに隆盛をきわめ、オランダ、ベルギー、イギリス、ドイツ、さらにイタリアやわが国などからも、多数の卓越した演奏家たちが輩出するようになって、ヴェンツィンガー教授らの演奏は多少古いとみなされがちだが、しかし古楽器演奏復興の開拓者としての同教授の功績は大であった。

アウグスト・ヴェンツィンガー博士 1973.1.29 中音練習場に来訪