各大学の学風のちがい


 やがて、立教大学以外のいくつかの大学にも出講するようになった。東京大学(本郷、駒場)、東京芸術大学、お茶の水大学、名古屋大学、大阪大学、慶応義塾大学(三田、日吉)、聖心女子大学、相愛大学等々、集中講義した大学もふくめると二十以上の数になるのではないだろうか。

 興味ふかいのは、それらの大学のあいだで学風というか、学生の気質の相違がある点である。学生一人一人はそれぞれ個性をもっているにもかかわらず、集団になると自ずから独特のえもいえぬ雰囲気をかもし出してくる。講義中にそれぞれの学風の相違が肌に鮮明に感じとられてくるのが、実になんとも面白い。

 慶応義塾大学は、わたくしにとって講義しやすい大学である。わたくしの話に興味をもつと、うなずいたり身を乗り出したりしてきて、敏感に反応してくれる。こちらもいい気持ちになり、ついつい熱が入ってくると、またそれに反応してくれる。教師を実に上手に乗せるのである。その反面、慶応の学生は財力や権力に対しても敏感な傾向がないでもないが、慶応に出講することはわたくしにとって実に楽しい。

 これと対照的なのが東京大学である。わたくしがいくら熱を入れて話していても、常に一枚のヴェールで隔てられている。「おまえは何を言いたいのか、まあ一応聞いてやろうではないか」といった調子で、白けた雰囲気につつまれている。その代わりこちらの不備や矛盾は即座に見抜いて、なんともいえない軽侮の表情を見せる。これほどやりにくい相手はない。学生時代のわたくしもあんな顔をして受講していたのだろうか。当方としては常に緊張し、いささかのミスもないように努めなくてはならない。

 ただし、立教にせよ、慶応や東大にせよ、一般の総合大学で音楽の講義をする場合に大きな障害となるのは、学生たちが音楽の理論に関してほとんど無知であることである。したがって、リズムであれ、ハーモニーであれ、音階であれ、音楽の初歩的な事がらから順序だって説明してゆかないと講義はすすまない。いわんや楽譜を使った分析などほとんど通じない。美術史の場合ならスライドを使って作品の輪郭を呈示できようが、音楽の場合には全曲聞かせるわけにゆかず、また聞かせたとしても美術作品のような具体性を欠くために、一般学生の理解をえるのはかなり困難である。導入部ばかりが長くなって、なかなか本論に入ってゆけないという悩みが常につきまとう。

 その点では東京芸術大学の音楽学部の学生たちは、音楽の実践が本職だけに理解ははやい。かなり専門的なことを言ってもついてくるし、むしろそれを喜ぶ傾向がある。楽譜はもちろんお手のものである。しかし反面、話が音楽以外のことに及ぶと他人事のように表情を変えてしまって通じにくくなる。

「イギリスのジョン・ダウランド(1563−1626)のリュート歌曲には、こういういい曲もあって、その楽譜を手に入れるのは‥‥」などという所まではのってくるのだが、「この曲の歌詞のシェイクスピアの詩の脚韻は‥‥」となると急に白けて、関係ないよという顔をはじめる。音楽を音楽以外の視点から眺めるという訓練を、芸大の音楽学生はほとんど受けていないのである。

 わたくしはこのあたりが日本の音楽家教育の大きな問題点と考えている。ヨーロッパの音楽家たちが美術、文学、哲学などに関しても玄人はだしの一家言をもち、ひろい教養を身につけているのときわめて対照的である。