立教大学の教師生活


 帰国するとわたくしは、すぐに東京大学時代の恩師辻壮一先生に電話をさしあげた。アメリカ滞在中に先生はお手紙をくださり、先生の常勤校である立教大学にわたくしをスカウトしてくださったのである。帰国しても定職のないわたくしにとってまことに有り難いお話で、一も二もなくお引き受けすることにした

 「帰ってきたか。では明後日からすぐに講義を始めてくれ」と言われる。これには驚いた。今は九月。三年間の外国生活の疲れをいやし、ゆっくり準備して来年四月から講義を開始するつもりでいたところ、先生は明後日から始めよと宣う。

 「それはまた先生、いくら何でも、あまりにも早すぎませんか。来年四月からばかりと思っておりました」「いやかまわん。ワシの後期の講義をキミに任せることにしたのだ。ともかく明後日から始めてくれ」

 やむなく立教大学にかけつけることにした。が、さて、その立教大学がどこにあるのかも分からない。調べてやっと池袋にゆき、当時まだ盛んだった闇市(ブラック・マーケット)の間を通りぬけ、道をたずねてやっと立教大学にたどり着いた。自分が講義する大学を人にたずねて出校するというのも、まことにお粗末な話である。

 辻先生は早速わたくしを独特の口調で、学生に紹介してくださった。「アー、この先生はまだ若いがなかなかの勉強家で、アメリカに三年も留学しておった。ワシよりもずっといい講義をするから、よく聞かんといかんぞ。騒いだら、このワシが叱りにくるぞ」

 今の時代なら三年間の留学など何でもないことだが、外国にゆくこと自体がまだきわめて希有であった当時だけに、わたくしはすぐに学生の信頼を受けることができた。

 こうしてわたくしの教師生活が始まった。辻先生は古武士然としたご風貌で、おおらかで屈託ないお人柄であられた反面、種々気をつかってくださり、お陰でわたくしは立教大学になんの違和感もなく溶けこむようになった。

 この大学でとくに感じるのは、キリスト教を建学の精神とする学風の反映でもあろうか、関係する人々の家族的なあたたかさである。たとえば講義中に、わたくしは不注意にもスライド式の黒板に指をはさんでしまった。講義を中断して診療所に駆けこむほどの痛さだった。ところが翌日出講してみると、問題の黒板に木枠がはめ込まれて、指をはさまないようにキチンと修理されている。何も言わずに陰でこまやかな心づかいがはらわれているのである。キャンパスを歩いていると、多くの職員や学生たちが「先生、お指の怪我大丈夫ですか」と心配そうに声をかけてくれる。小学校から一貫して国公立で学んできたわたくしには考えられない、私学のよさである。このゆえに、奉職中何回か他大学からスカウトされかかったにもかかわらず、立教大学から離れがたく、結局は三十四年勤務して定年退職を迎えた。

 立教大学には辻先生が創設されたグリー・クラブという合唱団がある。先生から依頼されて毎年わたくしは指揮台に立ち、ルネサンス期の宗教合唱曲を演奏することになった。学内にチャペル(礼拝堂)がある強みだろうか、信仰などにまったく関心のない学生でも立派に宗教的な雰囲気で歌いあげ、現在では宗教音楽に関する限り立教グリーの演奏は日本有数のものとして通用している。

いまから四年前の1993(平成5)年わたくしが定年退職するおりには、それに先立つ前の年にグリー・クラブの現役や卒業生、さらに立教交響楽団のほぼ二百五十人がわたくしの指揮で、モーツァルト作曲『戴冠ミサ曲』を東京芸術劇場で演奏してくれた。「戴冠」と「退官」をかけた語呂あわせの曲目である。

 また今年六月の辻先生没後十年追悼演奏会では、フォーレ作曲『レクイエム』を指揮した。これも毎週大阪や九州から日帰りの航空機で練習にかけつけてくる卒業生をふくめて、三百人を超える大合唱となった。一重に辻先生のご遺徳の故ではあるが、このあたりの家族的な連帯感も立教のよさ、私学のよさと言えるだろう。

 立教大学におけるわたくしの講義は音楽史が中心になり、さらに総合大学の性格から一般学生にたいする「クラシック音楽入門」といったものも必要とされる。こうした啓蒙的な講義を重ねてきた経験が、一般人に音楽を分かりやすく聞かせるコツのようなものを会得させてくれた。NHKの『バロック音楽の楽しみ』や『音楽の泉』の解説にも、この経験が大きな支えとなっているように思う。