中世・ルネサンス音楽への道


劇『シラノ』で演出とド・ギュッシュ伯爵を演じた筆者 (1945年)

 ちょうどその頃に旧制高校の年中行事の記念祭が催され、学科ごとに芝居を演じることになった。わたくしの属する理科乙類ではエドモン・ロスタン作『シラノ・ド・ベルジュラック』を上演することになり、増田通二が美術を担当し、わたくしは演出を受けもった。

 女子校と合同して女役をまかせるなどということはまだ考えられない時代のこと、優形の同級生に女装させ、あり合わせの衣裳や小道具を動員し、各場面をそれぞれ適切な音楽で飾りたてた。石油罐で照明装置を作ったものの、当時ひんぱんにおこる停電のために途中で消えてしまったり、主人公シラノの付け鼻が落ちかけたり、波乱ふくみの上演であったが、結果的には大成功し、ロマンと娯楽に飢えていた全学生の熱烈な喝采をうけることができた。

 この劇の冒頭にシラノがオペラ上演を妨害する一幕がある。わたくしは、初代吉右衛門演じる『幡随院長兵衛』からヒントをえ、高校の講堂全体をオペラ劇場にみたてて、シラノをあらかじめ観客の中にしのび込ませておき、突然どなりながら舞台にかけ上がるという演出を試み、たいへんに受けた。

「シラノ劇」からほぼ五十年たった今なお、劇に関係した面々は上演の十一月一日に毎年「シラノ忌」と称する会合を開いて、あの上演とあの時代を思い出すことにしている。

 序でながら、わたくしはその翌年の記念祭でも、後輩だった現代日本の代表的な作曲家三善晃君を女形に仕立てて演技指導した。

 こうしたことが大きな契機になって、いま自分は間違いなく生きていることを確認し実感できるようになった。挫折感と虚脱感から立ち直って、新しい時代を生きてゆこう。将来についても根本的に考え直さなくてはいけない。いまだ医師になるために理科に籍をおいているが、文科に転科して、中学生の頃から熱望した音楽研究にうち込もう。この日本で音楽研究、とくに古い時代の音楽研究など職業として成立しないことは分かりきっている。医者の道を選べば、少なくとも食いはぐれはないだろう、だが、飢えてもいいではないか。自分はあの戦争で死んだはずで、いわば「おまけ」として残された生命なのだから、たとえ貧しくても飢えても自分の希望する道を選びとるべきではないか。

 結局わたくしは医者の道を棄てて、東京大学文学部に入学した。1948(昭和23)年のことである。まったく迷いがなかったわけではない、相談にうかがった先輩のなかには「医者は人の生命を救うことが出来る。音楽が世の中になんの役にたつのか」、と忠告してくださる方もおられた。しかしわたくしの心中には、

「音楽も、人の心を救うことが出来るはずだ」

 という思いが消しがたく鳴りひびいていた。

 東大文学部では西洋史学科に籍をおいた。音楽を専攻するには美学科で学ぶのがふつうだが、音楽史を希望するわたくしは、哲学の一部門の美学科より、史学科に籍をおいて歴史意識を身につけるのが有用と考えたのである。

 東大に通いだしてみて驚いた。都立高校の理科の同級生たち、詫摩武俊、多湖輝、増田通二の面々がそろって文学部にいるではないか。彼らも同じように理科をすてて文科の道を選んだのである。当時わたくしたちは、ポツダム宣言に掛けて自分たちを「ポツダム文科」と呼びあっていた。いささかの誇りと多少の後ろめたさとを、ないまぜにした呼び方である。

 東京大学文学部における講義は充実していた。ギリシア史の村川堅太郎先生、後に総長になられたドイツ史の林健太郎先生、教科書検定問題で信念を貫かれた家永三郎先生、難解で閉口したが美学の大西克禮先生や竹内敏雄先生、フランス文学の渡辺一夫先生の講義など、あの混乱期の日本にも卓越した知性が燦然と輝いていた。

 音楽研究の専任教授はおられず、バッハ論の辻壮一先生、日本音楽の吉川英史先生たちが、非常勤講師として講義された。当然、わたくしはそれらの先生方の講義から多くのものを学びとらせていただいた。

 加えて、東大では学ぶことが出来ない音楽の実技に関しては、『水のいのち』や『心の四季』などのすぐれた合唱作品の作曲者高田三郎氏に師事して、音楽理論や作曲法を学んだ。ただし自分の希望するバッハ以前、とくに中世やルネサンス期の音楽に関しては師に就いて学ぶことがまったく出来ず、自分自身で手さぐり足さぐり試行錯誤しつつ独学するほかはなかった。

 そのころ東大で音楽を専攻していた友人には、民族音楽の分野で多くの業績をあげつつ物故した小泉文夫、ドビュッシー研究の平島正郎、すぐれた『クラシック音楽作品名辞典』を著した井上和夫、すこし先輩にあたる音楽批評の遠山一行、作曲の別宮貞雄、後にNHKラジオ『バロック音楽の楽しみ』解説を分担しあうことになる服部幸三といった面々がおられ、これらの諸氏からもわたくしは多くの刺激と激励を受けつつ自分自身の探究を継続していったのである。

 東大文学部の卒業論文『ネーデルランド楽派の研究』はこのようにして完成された。当時の日本で手に入る限りの資料を集めて、十六世紀ルネサンス期の音楽について論じたものである。文章とほぼ同量の楽譜を添えたため、今でも林健太郎先生から「皆川君の論文には楽譜が一杯あって、困った」とお叱りをいただいている。

 中世やルネサンス期の音楽は合唱のための作品が中心になる。たまたま入手したルネサンス期最大の作曲家ジョスカン・デ・プレ(1440ごろ〜1521)による『ミサ・パンジェ・リングァ』の楽譜をピアノで弾いてみても、イメージはなかなか掴めない。といって、この作品のレコードを手にするのはまったく不可能な時代である。それなら仕方がない。実際に音にするために何人かの友人を誘って「中世音楽合唱団」を結成し、わたくしが指揮をすることにした。

 当初の歩みは必ずしも順調ではなかった。指揮者のわたくしを含め最低四人の参加を必要とするのに、いくら待っても三人しか集まらない。やむなく四人目が来るまで互いに自己紹介しあったりして時間をつなぎ、ようやく練習が始まるというようなことが何回もつづいた。その意味では苦労の連続であったが、しかしあの当時、生きた音で聞くことが出来なかったヨーロッパの古い合唱作品を、この耳で確認しつつ演奏できたことはかけ替えのない貴重な体験であった。

 1952(昭和27)年創立のこの合唱団は以後連綿と継続され、中世から十六世紀までの主要な合唱作品のほとんどを本邦初演のかたちで演奏して、今年で四十五周年を迎えた。最近わが国でもやっとグレゴリオ聖歌やルネサンス合唱作品が愛唱され愛聴されるようになっているが、それは中世音楽合唱団が先鞭をつけリードしてきたという多少の自負の念がないでもない。

東京大学大学院時代の筆者 (1953年頃)

 こうして大学学部を卒業し、さらに大学院美学科に籍をおいて研究をつづけた。この時期の研究成果は、編集の延命千之助君の配慮によってNHK交響楽団機関誌『フィルハーモニー』に、『ヘンデルの音楽様式』と『ネーデルランド楽派の循環ミサ曲』という論文のかたちで掲載されている。とくに後者の論文は学部卒業論文を縦軸にとり、ジョスカン・デ・プレ作曲『ミサ・パンジェ・リングァ』を中世音楽合唱団によって自分自身指揮し演奏した体験を横軸に、ルネサンス期宗教合唱音楽の諸相について論じたものである。

 最初せいぜい二回ぐらいで終わるつもりでいたところ、だんだん力が入ってきて、ついに延々十五回連載の長編論文になってしまった。これには当然、強い反発がまき起こった。「交響楽団の機関誌に、オーケストラにまったく関係ない大昔の合唱音楽の論文を、なぜ長々と掲載するのか」

 これに対して、当時の交響楽団事務長有馬大五郎先生(後に国立音楽大学学長)は同誌の『無題』というコラムで次のように反論してくださった。

「皆川達夫のニーダーレンダー楽派の論文を頂いたのは感謝感激の極みである。私どもが先ものを買ったことだけは認めるが、こんな立派なものが日本人の手で研究されているということだけでも知って貰いたい。音楽史の探究がハイドン、モーツァルトの古典以前に遡るようになったことがうれしいのである。(中略)

 こんな貴重な研究と相俟って新時代の日本を代表する作曲家が出て来ないと誰が言い得よう。皆川達夫の研究。これは何時の日か日本人に理解って貰えるもので、而も大きな貢献をする学問である。これが先ものを買った言いわけである」(1953年四月号)。

 一度もお目にかかったことのない音楽界の大長老が、海のものとも山のものともつかない青二才を「先もの買い」してくださったお言葉は、涙が出るほどうれしかった。有馬先生と延命君のおかげで、わたくしは若手の音楽学者として多少の評価を受けるようになった。因みに、小泉文夫君も『フィルハーモニー』に『日本伝統音楽の研究』という長編論文を発表して一躍注目をあびている。

 こうした状況からわたくしは東京芸術大学や慶應義塾高等学校(日吉)に講師の職をえて、多少の収入をえることが出来た。しかし、やがて次第次第に、わたくしの目のまえに越えがたい大きな障壁が立ちはだかるのが見えてきた。

 当時の日本で中世やルネサンス期の古いヨーロッパ音楽について研究するのは、資料の面からいっても指導者の面からいってもまったく不可能であることが、否みがたくなってきたのである。

 この障壁を打開するためには外国に留学するほかはない。そう気がつくと、わたくしは外国留学の方策をさがしはじめた。貧しい青年研究者にとって留学の資金を調達することは不可能である。とすれば外国の奨学金を受ける以外に、方法はない。

 能うことなら音楽研究の本場のドイツかオーストリアに留学したかったが、戦後の荒廃に悩むドイツやオーストリアには外国人学生に奨学金を出す余裕はない。結局、そのころ外国人にたいして奨学金制度をひろく開いていたアメリカのフルブライト研究員試験を受けることにした。

 専攻の音楽研究はともかくとして、英会話にはまったく自信のないままに、落ちてもともとと腹をすえて試験場に臨んだ。大勢の試験官が、左から右からと鋭い質問を英語で問いかけてくるのを切りぬけ潜りぬけ、最後にこう質問された。

「履歴書をみると君は日本音楽にも造詣があるようだが、その君がどうしてアメリカでヨーロッパ中世の音楽の研究をしようというのか」

 この質問は有り難かった。日本音楽を知っているからこそヨーロッパの古い音楽に興味をもつのだと前置きをして、「ふつう日本音楽を知っている人は西洋音楽を知らず、西洋音楽を知っている人は日本音楽を知らない。わたくしはその双方に関心をもっているからこそ、留学して研究をふかめたいのである」と、大見得を切った。われながら見事な返答と満足したものの、その途端、たいへんなことに気がついた。「日本音楽を知っている人は西洋音楽を知らず‥」という答えを Who knows Japanese music, they does not knows Western music --- と言ってしまったのである。

 英語力のない馬脚が表れてしまったわけで、これは落第にちがいないと覚悟した。ところが不思議なことに、何日か後に合格通知が舞いこんできたのである。文法上のミスは黙認するということであろうか。こうしてわたくしは、結婚したばかりの妻礼子(旧姓石附)を伴って、アメリカに旅だつことになった。1955(昭和30)年九月、二十八歳の夏のことである。

中世音楽合唱団を指揮する筆者 (1955年)