軍国主義の嵐のなかで


都立八中時代 (1943年頃)

 しかしながら、その熱い思いは中学二年生の時(1941=昭和16年)にはじまった太平洋戦争の拡大によって、無残にもうち砕かれてしまった。当時わたくしは東京都立第八中学(現在の小山台高校)に在学していた。この学校はリベラルな気風で知られていたにもかかわらず、わたくしが入学するすこし前に就任した校長は軍国主義的な傾向を色こく押しだした。軍人でもないのにサーベルを腰に生徒の先頭に立ち、軍人口調で訓示し、積極的に戦争を謳歌しつづけた。その姿勢は生徒たちに敏感に反映して、職業軍人になるために陸軍士官学校や海軍兵学校に進むのが男の道という空気が次第にかもし出されてきた。

 この雰囲気に背を向けて、能楽や歌舞伎に熱中し、音楽研究を一生の仕事にしようなどというアブノーマルな少年は許しがたい存在とされ、非国民扱いされることになる。あの時代に非国民と呼ばれることは致命的な意味あいをもっていた。今でいえば「いじめ」だろうか、わたくしは軍人志望の同級生たちの指弾の対象となり、つるし上げられ、暴力の恐怖にさらされた。

 さまざまに思い悩んだ末、わたくしは家秘蔵の短剣を竹刀袋に隠して学校に通うようになった。もし軍国少年たちに暴力をふるわれた場合、応戦する覚悟だったのである。今にして思えば意識過多の行動にちがいないが、その時はその時なりに切羽つまった命がけの決心だった。

 教師に相談しようにも、ほとんどの教師は校長の路線にそって非国民の少年の悩みなど一顧だにしてくれない。なかには授業中に「日本人と日本人以外の人間とは、どの点が違うか」などと質問してくる教師がいる。人種的相違や言語、習慣などの相違について答えると、「日本人が日本人以外の人間と違う点は、日本人が大和魂をもち、天皇陛下の赤子(せきし)であることだ」と結論づけ、さらに転じて「米英人と戦って彼らを地球上から抹殺するのが、諸子たちの努めである」などと昂然と説教する教師がいたのである。

 がしかし、そこが八中のリベラリズムの伝統だったと思うのだが、何人かの教師がわたくしの立場を理解して目立たずに庇ってくれた。教室で「日本は神国で、神風が吹いて勝利するなどといい気になっていると、この戦争は必ず負ける」と、軍国少年たちを牽制してくれる教師もいた。あの時代に勇気を要する発言であったと思う。また、天皇は軍部に乗せられたと暗に指摘し、戦争の愚を説き、生命の大切さを教えてくれた教師もいた。「天皇陛下」という言葉を聞くや否や身を正し、「気をつけ」の姿勢をとるように強制されていた学校における発言である。

 さらに当時八中には、俳人の加藤楸邨先生が国語を担当して教壇に立っておられた。わたくしが記憶する限り先生は教室では戦争に関する発言はなさらなかったように思うが、軍国とか戦争という次元をはるかに超えた、いうならば汎宇宙とでもいった立場から自在に少年の目を拓く言葉を発されていた。科学を万能とし、「科学する」などという言葉が流行していた時代に、たとえば次のようなお言葉が新鮮に響いた。「亀の鳴く声を聞いたことがあるか。科学では亀は鳴かないというね。だが、亀は鳴くのだよ。亀の鳴く声に耳を傾けなくてはいけない。亀の鳴く声が聞こえないような人間に、他人を指導したり、世界を指導するなど出来るはずがない」。見事な時代批判であったと思う。

 中学生のわたくしに先生のお言葉の真意が正確に理解できたはずはないが、あの重苦しく閉塞した時代にあってこのお言葉は衝撃的で啓示にみちていた。後に先生が戦争協力者と批判されたことを知ったが、おそらく先生のお心はもっと別の高いところにあったように思われてならない。いずれにせよ少数の心ある教師の支えによって、わたくしは軍国主義の嵐吹く八中時代を何とか無事にすごすことが出来たのである。

 だが、ともかく一刻もはやくここから抜け出そうと、当時の制度で中学四年(本来は五年)から旧制高等学校を受験できることを利用して、1944(昭和19)年東京都立高等学校(都立大学の前身)に進学した。

 当時都立高校はキリスト者の英文学者佐々木順三先生(後に立教大学学長)を校長として、リベラルな気風にあふれていた。軍事教練こそ強制されていたが、草履ばきの足にゲートルを巻いて参加しても叱られないし、天皇を「お天」、軍人を「ゾル」(ドイツ語のゾルダーテンの略)と小声で呼びあっても咎められることもなかった。暗い八中から来て信じがたい自由の雰囲気に、わたくしはやっと一息つくことが出来たのである。

 ここでも佐々木校長はじめ何人かのすぐれた教師に出会えた。ドイツ語の石川練次先生(岩波文庫『旅の日のモーツァルト』の翻訳者)は五十に近づいておられたと思うが、若々しく夢のある講義を聞かせてくださった。ゲーテの詩を訳された後に、「一緒に歌おう」と目を輝かせてシューベルトの合唱の音頭をとられたこともある。先生は終戦直前に急逝してしまわれたが、確かに、根っからのロマンチストの石川先生にはあの戦争は耐えられなかったと思う。

 戦争のさなかにも依然わたくしは音楽会や能楽堂、歌舞伎座通いをつづけ、十五代目羽左衛門の最後の舞台姿もしっかり目に焼きつけておいた。また何人かの友人を集めて「能楽研究会」を組織し、謡曲や狂言に熱中していた。

都立高校能楽研究会の同窓会 (1949年)。

前列左より静岡新聞社社長大石益光、皆川達夫、日本獣医畜産大学教授内田和夫、法政大学教授渡辺一夫

 戦争の局面はますます切迫し、文科系の学生の徴兵猶予(在学中は徴兵を延期される制度)が廃止されることになった。またしても軍国の嵐が身近に迫ってきたのである。音楽研究の道をとれば否応なしに戦地に送りこまれること必定である。

 この事態にどう行動すべきであろうか。「聖戦」とか「正義の戦争」、「東洋平和のための戦争」などというスローガンは一切信じられず、天皇のために死ぬのが名誉とはまったく考えられず、自分が殺されるのもつらいが、他人を殺すのも嫌と思う人間にとって、戦争から逃れるにはどうしたらよいのだろうか。

 現代の学生たちは、なぜ反戦運動をしなかったと当時のわたくしの姿勢を批判するが、そんなことが通用する生やさしい時代ではなかった。取りうる唯一の道は、他人も自分も殺さずにすむ医学の道を選ぶことである。わたくしは高校の理科乙類―ドイツ語を専攻して将来は医者になるコースに進むことにした。

 実はその頃の同級生で、わたくしのような考えをもつ学生は他にもいた。今日幅ひろく活躍している心理学者の詫摩武俊や多湖輝、また池袋「パルコ」を創業して若者文化を作りだした増田通二らの面々は、もとより人間や文化、芸術にたいしてふかい関心をもち、戦争から逃れるために心ならずも理科のコースを選んでいたのである。息苦しい極限状況の時代であっただけに、同じような悩みをもつこれら同年輩の友人とはつよい連帯感と友情をもって結ばれた。

 しかし、戦争の炎はますます身ぢかに迫ってくる。多くの先輩たちが学徒出陣として徴兵されることになった。音楽を愛する出陣学徒たちはバッハ作曲『マタイ受難曲』を涙ながらに合唱して戦場におもむいていった。その中には自らの意志によって欣然参加した学生も皆無ではなかったろうが、苦悩を胸に秘めつつやむなく参戦した学生たちも多数いたはずである。

 わたくし自身もあと一年戦争が長びけば、たとえ医学志望であっても戦場にかり出された可能性は十分にあった。海岸にすわって寄せる波を手に受けながら、このように平和で美しい自然のなかで、なぜ人間が戦い生命を落してゆくのかと、つくづく自分の生命がいとおしく思われてならなかった。

 また逆に、いっそ自分の意志で生命を絶ってしまったら、心に反して戦争にひき出されることもなく、他人を殺すこともなく、最上ではないかと考えた瞬間もあった。鉄道自殺、断崖からの投身。いろいろの可能性を考えて実行を試みてもみたが、結局果たすことが出来ず、やがてアメリカ軍機の空爆によって東京は焼け野原になってしまった。歌舞伎座は鉄骨だらけになり、大曲の観世会能楽堂も焼失した。能舞台の底に並べられた甕(足拍子を共鳴させるための大甕)だけが焼けただれて残っているのを見た時の挫折感は、自分の家が焼け落ちた以上に強烈であった。

 そうこうして、1945(昭和20)年八月の終戦を迎えることになった。終戦を知ったその時は、生命を失わずにすんだという安堵と、今まで無理やりに自分を緊張させてきたことの反動とがないまぜになって、一種の虚脱感にとらわれてしまった。勉強にはまったく身が入らず、食糧も衣料も乏しい焼け跡住まいで、ただただ謡曲を吟じ仕舞を舞い、粗末な蓄音機から流れでるシューベルトやシューマンに食いいるように聞きいる日々がつづいたのである。