オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし

 皆川達夫

 生月島のオラショ(隠れキリシタンの祈り)にわたくしが最初に出会ったのは、もうニ十五年も前になるだろうか。一九七五年(昭和五十年)の五月のことである。

 その頃わたくしは長崎市のアマチュア合唱団を指導するため、この地に滞在していた。ルネサンス音楽による演奏会を企画したこの合唱団が、わたくしに指揮を依頼してきたのが発端である。ほぼ一週間ぐらいの長崎滞在の合間に、合唱団のリーダー格のメンバーが「県下の離れ小島に隠れキリシタンの面白い歌がありますから、聞きにゆきましょう」と誘ってくれた。

 率直に言ってその頃のわたくしには、隠れキリシタンの知識や関心はほとんどなかった。かって遠藤周作氏の『切支丹の里』によって隠れキリシタンの存在を知ってはいたものの、何やらおどろおどろしいイメージを抱いてしまって、余所事のように思い込んでいたのである。せっかくの申し入れにも乗る気持はさらさらなく、言を左右して逃げ腰でいたわたくしを、リーダーは、強引といってもよい調子で車に乗せて出発した。

 当時、長崎市から生月島までは交通の便はきわめて悪く、佐世保を経由して田平に至り、そこからフェリーに乗って平戸に渡り、さらに車で峠一つ越えた所にゆき、またフェリーに乗換えて、やっと生月島にたどり着くといった状況であった。現在では田平から平戸へ、また平戸島から生月島へ、二つの大橋が架けられているが、当時は長崎市から生月島まで約六、七時間も要したと記憶している。

 生月島は、隠れキリシタンの島である。現在の信徒の数は不明だが、もともと隠れキリシタンは「隠れる」のが本来で、今なお独特の信仰を秘匿して守りつづけている人々が少なからず居住している。島に到着した翌日、一部(壱部)集落の増山隼吉さんのお宅にうかがって、隠れキリシタンの行事に同座することになった。当時の隠れキリシタンの方々はまだ余所者に対して警戒的ではあったが、長崎県庁勤務の合唱団リーダーの顔で、「まあ、よかですと」とお許しを受けることが出来た。

 カトリック教会の司祭にあたるお爺さん役の出口左吉さんが到着されて、いよいよオラショが始まった。すべては暗唱されて一切のよどみなく、約一時間ほどかけて祈りが延々と続いてゆく。その中にはあきらかに日本語と思われる部分もあるが、まったく意味不明な言葉による箇所も多い。とくに最後の部分では、『らおだて』『なじょう』『ぐるりよざ』という三つのオラショが、御詠歌とも祝詞ともつかない不思議な節まわしで唱えられていた。

 一通りオラショが終わったところでいくつか質問を試み、そこから、オラショを先輩から習うのは「春の悲しみの期間」(キリスト教における、復活祭に先立つ四旬節に相当)に限られ、その期間に覚えきれない場合には次の年まで待たなくてはならないこと、紙に書き取ってはならないとされていたこと、昔は夜中に外に見張りを立てて教える者と教わる者とが布団をかぶって習ったことなどを、知ることが出来た。

 「日本語で唱えられている部分もありますが、この訳のわからない言葉は何ですか」、「これは唐言葉ですたい。意味はまったく分からんですとー」。――しかし、ヨーロッパの宗教音楽を専攻するわたくしのアンテナに強力に感じとられるものがあった。――「これはラテン語が訛ったものではないだろうか」、と。

 今までの無関心から一挙に目ざめたわたくしは、その後、田北耕也氏や片岡弥吉氏ら隠れキリシタン研究の先覚者たちの著作を参考に何回も生月島に通い、一部、山田、堺目、元触などの集落の隠れキリシタンの方々のお宅にうかがって、オラショを録音してまわることになった。はじめは警戒的であった隠れキリシタンの方々も次第にうち解けて、積極的に録音に参加してくださった。

 こうしてオラショの言葉を全文ラテン語に復元し、節をつけて唱える「歌オラショ」を東京芸術大学学生の竹井成美さん(現宮崎大学教授)の協力で五線楽譜に移して、その原曲となったラテン語聖歌を比定する作業を進めていった。さらに加え、歌オラショの原曲を求めてヨーロッパの図書館を歴訪する旅を重ねた。日本にある現行のカトリック聖歌集を典拠にするだけでは不十分であって、わが国にはじめてキリスト教がもたらされた十六世紀の聖歌集に立ち返えることによってはじめて本格的な調査になりうると考えたからである。

 実は、歌オラショとラテン語聖歌との関連について気づいたのはわたくし一人ではなかった。わたくしが生月島をはじめて訪れた年、その同じ年の一九七五年の十月に、長崎純心女子短期大学教授の寺崎良平氏は歌オラショ『らおだて』とラテン語聖歌『ラウダーテ』との関連について学会発表をおこなわれ、またそれに先立って『隠れ切支丹』の名のLPレコードを一九七三年(昭和四十八年)に作成しておられた。

 しかし、寺崎氏は『らおだて』に言及されるだけで他の歌オラショの『なじょう』と『ぐるりよざ』については一切触れられず、また原曲とされた聖歌『ラウダーテ』のメロディは一九五四年長崎出版のカトリック聖歌集記載のもので、学術的探求の史料としては不徹底の側面があることも否めなかった。

 真理は誰によって語られても真理である。わたくしはわたくしなりの調査をはたすべきであろうと心に決め、『洋楽事始』というタイトルのLPレコードの形にまとめあげ、翌一九七六年(昭和五十一年)十月に東芝EMIから公にした。これは、生月島のいくつかの隠れキリシタン集落に伝承されてきたオラショ全文をおさめ、とくに三つの「歌オラショ」については一九五〇年代録音(田北耕也氏録音)と一九七五年録音とを対比させ、またそれらの原曲と比定される三つのラテン語聖歌を付したレコードである。加えて、キリシタン期の日本における唯一現存する楽譜史料である『サカラメンタ提要』(一六〇五年、慶長十年長崎印刷)記載の全十九曲のラテン語聖歌を、前記の長崎の合唱団の演奏によっておさめた。ちなみに、最近このレコードはCDとして再刊行されている(ヤマノ・レコードYMCD-1060〜1)。

 またレコードとともに、前記の遠藤周作氏、田北耕也氏、南蛮史研究の海老沢有道氏、キリシタン史のフーベルト・チースリク神父、民族音楽の小泉文夫氏らとの対話をまとめた『オラショ紀行』という本(日本基督教団出版局、一九八一年)を刊行した。

 しかし、それにしてもわたくしの胸中にはまだ未解決のシコリが残っていた。生月島の三つの歌オラショのうち、『らおだて』と『なじょう』とが、それぞれラテン語聖歌の『ラウダーテ・ドミヌム Laudate Dominum (主をたたえよ=詩編一一六編)』と『ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis (今こそしもべを=シメオンの賛歌)』に由来することには問題はない。が、残りの『ぐるりよざ』について、果たして自分が比定した聖歌でよいのだろうか。この比定を決定づける十六世紀の原史料を探し出してこそ、調査ははじめて本格的になるのではないだろうか。この課題に答えるべく、再びヨーロッパの図書館を歴訪して、『ぐるりよざ』の原曲を探し求める旅を続けた。

 イギリス、フランス、ポルトガル、イタリア、とくにローマのヴァティカン図書館などと探しまわって、やっと七年目の一九八二年(昭和五十七年)十月に、スペインのマドリッドの図書館のカードにそれらしい聖歌集を見つけだすことが出来た。司書に請求した書が手元におかれたその時、体がふるえてきた。これに相違ないと直感したのである。ふるえる手で一ページ、一べージ開いてゆく。――「あった、あった。これだ、これだ」。

 まぎれもなく生月島の歌オラショ『ぐるりよざ』の原曲となった聖歌『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』、夢にまで見たそのマリア賛歌の楽譜が記されていたのである。

 それは、現在なお世界中に流布している標準的な聖歌ではなく、十六世紀のスペインの一地方だけで歌われていた特殊なローカル聖歌であった。それが、四〇〇年前にこの地域出身の宣教師によって日本の離れ小島にもたらされ、はげしい弾圧の嵐のもとで隠れキリシタンによって命をかけて歌いつがれて、今日にいたったのである。この厳粛な事実を知った瞬間、わたくしは言いしれぬ感動にとらえられ、思わずスペインの図書館の一室で立ちすくんでしまったのであった。


(みながわたつお・立教大学名誉教授、西洋音楽史専攻)

 

国立劇場第25回音楽公演プログラムより